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The 9 artis exhibition:Leha,lehah

デンパサール市の東方約25キロメートルに位置するギアニャ-ル県マス村は、真に、バリヒンドゥの歴史を再び呼び起こす地であります。また、それは古より、言うなれば、『私たちが存在する以前から、既に定められていた』という信念を堅持する地であります。

はるか昔、16世紀頃、ダン・ヒャン・ニラルタという僧侶が、現在のマス村にあたる場所で、彼の杖、すなわち一本の木棒を村の一画に突き刺しました。すると、不思議なことに、その杖は育ち、生きた一本の木になり、そればかりか金の花をつけたのです。 僧侶は、「マス村の人々は今後、木から生活の糧を得る」という言葉を残しました。

マス村の人々が木を選ぶよう導き、確信させる重要な歴史的な起点です。

また。この言葉は、バリヒンドゥの、現在でも生きている創作の哲学としても、彫刻に限らず、生活、アート全般に渡って重要な意味を持っております。

マスの彫刻芸術
by Jean Couteau

2004年12月27日より2005年1月27日まで、バリ島マスのビダダリ・ギャラリーにて展示されるビダダリ・コレクションは、我々にバリの彫像芸術の歴史と現状の概要を知る機会を開いてくれる。

バリの彫刻芸術は、外部からの様々な影響を受けた歴史に根ざしている。第一には、インドの影響で、バリの古典iconography「偶像」の大部分が、ヒンドゥーとその神々、マハバラタやラマヤナのような叙事詩を源泉(/題材)としている。プヌリサン山のトゥガッ・コリパン寺院(8~9世紀)に見られるような彫像はこれらの影響の証しである。第二に、同じく重要なものとして、中国の影響、特に木彫芸術に対するそれがある。中国を起源としていることが一目で分かる、翼のある獅子、巨大な人物像やその他の装飾的モチーフは、バリにあるほとんど全ての寺院や王宮に見られる一般的特徴である。そして、第三には、西洋世界であり、いくつかの寺院において巨人像と並んでしばしばオランダ人船乗りが描かれている他は、19世紀の半ばになって初めてその影響を示し始めた。

しかしながら、バリの彫刻芸術が全面的に外国の影響によって方向付づけられたという見方をするのは間違いである。バリの地から生まれた、インスピレーションは常に強く突出し、外部からの借り物の要素に、バリの生粋の人間や動物を登場させることでその存在を刻印している。これは、特に山岳地帯の農民の農民をモチーフにした彫刻や日常生活を描いた浮き彫り(basrelief)において顕著である。バリの彫刻芸術の大部分は、バリの土地から授かった天啓(/インスピレーション)による農民の彫刻と西洋の伝統による技法との出会いから生まれた。

古典期-1343年のマジャパヒトの攻撃より1906年~1908年のププタンの戦いまで-においては、バリの芸術と文化の過程(発展過程)は、地理的隔絶と政治的要素のために、その進行が緩慢で内部発生的な(endogen)-内部から起源する-傾向にあった。宗教が社会生活の全側面を支配し、概して芸術は教義を伝えるための器、或いは宗教的役割の担い手であった。対象物としては、この地古来の神像であるプラティマ(pratima)、守護霊或いは守護神を描いた像であるドゥワラパラ(dwarapala)、ガルーダや獅子、レリーフ上の神話である彫刻、或いは、建築物の装飾的モチーフであるプパトゥラン(pepatran)などを通して窺い知ることができる。上記の全ての例のiconographyは、厳格な型にはまったものであり、ほとんど変化したことはなかった。

このような規範(norma)の中においては、単に技法、手法、形、或いはテーマを変えようという希望、意志は聞かれたことがない。なぜならば、それは神々に背く行為、つまり「罰当たり」(/呪われるべき行為)と見なされていたからである。そのように堅いシステムの下では、変化というものは、ゆっくりとしか訪れず、そして常に内部から起因する。変化が起こる際には、通常長い期間を必要とし、そのような変化はしばしば、新しい技法の適用を通して訪れる。例えば、中国の墨の技法や、中国やイスラムのモチーフなど新しい装飾的モチーフの影響などによってもたらされた変化がある。1906年まで、進化のペースは緩慢で、世代から世代へと時代が巡っても、状況が変化することはなかった。このようなシステムはやがて圧力を受け、バリがオランダ植民地支配に屈したとき、ついに変換(transformation)が起こった。まず、1846年~1849年のバリ島北部ブレレンの戦い、そして、1906年~1908年のバリ島南部でのオランダ軍の攻撃である。ププタンの戦い-最後の戦い-におけるバリの王族たちの敗北によって戦いは幕を閉じた。

当初、変化の波及は、些細であるかのように見えた。バリの彫刻芸術におけるオランダの影響は、最初は内容物のみに限られていた。つまり、バリ風のままの造形システムに西洋風の人物や対象物が加わるというものであった。例えば、クルンクンのスマラプラ宮殿の大門には、顎ひげを生やした鼻の高い2人のオランダ人の彫像が見られる。より完全なイラストレーションは、1846年~1849年の間オランダが最も激しい抵抗を受けたバリ島北部のクブタンバハン地域に現存するレリーフに表れている。オランダのテクノロギーの卓越性と軍事力は、この島の彫像家たちの記憶に刻まれたと見え、寺院のレリーフを彫るように頼まれたとき、彼らはバリ独特の繊細な花や人物のモチーフと並んで、船、二輪車、自動車などのリレーフを施したのである。

その後暫くして、さらに大きな変化が起こった。1906年~1908年に及ぶ戦いでバリ島南部がオランダに屈した後、バリにおける芸術の役割に、より深意での変化が生じたのである。彫刻芸術は-絵画芸術と同様に-宗教的な価値によってではなく、美学的な価値によってオランダに購入される商品(commodity)へと変化した。ここに、生産システム、宗教的役割と含蓄の削り落とし、形状の変化において、多大な影響がもたらされたのだった

1920年代、美しく平和な島としてのバリ島のイメージが西洋世界に広まり、それに惹かれてバリへやって来た西洋人芸術家たちの直接的介在によって、変化のプロセスはさらに鋭敏化した。それら西洋人芸術家の中には、ウブドに定住することを選んだウォルター・シュピース(1895年~1942年)やルドルフ・ボネ(1895年~1978年)らがいた。シュピースとボネは芸術作品を注文することで、バリの芸術界に介在し始め、間もなく、バリの画家、その他の芸術家たちが新しい技法を学習し修得するよう方向付けるようになった。すぐに、彼らを「師」と見なす、正確な意味においては、その技法(/手法)及びテーマを習い、できる限り正確に模倣するべき「師匠」(master)と見なす、忠実な弟子たちが付いた。シュピースとボネは画商としての役割も果たしていたので、彼らが新しいテーマを要求したのも無理はない。

上述の事柄に関連して、長身像という形状の進化についての興味深い話をご紹介しよう。クレア・ホールド(ClaireHold)によると、ウォルター・シュピースは、1929年に1本の丸木を贈られ、それを一対の像にしたいと考えた。そこで彼は、コヴァラビアス(Covarrubias)を通じて知り合った、バドゥン県ブラルアン村の彫像家イ・トゥグハンに(製作を)依頼した。イ・トゥグハンはコヴァラビアス(Covarrubias)の隣人であった。彫像が出来上がったとき、シュピースは、息を呑んだ。(驚きのあまり一瞬こわばった。)彼が受け取ったのは、踊り子の形をした、長身の像一体のみだったのだ。理由を聞かれると、イ・トゥグハンは即座に答えた。「あの美しい木を二つに切ってしまってはもったいない。だから私は1体だけの像に仕立てたのです。」

このエピソードは、ある現実的な質問を呼び起こす。その「変化」の発端をいったい誰とすべきなのか?その変化はどのくらいが外国人の影響によるもので、どのくらいがバリ人によるものなのだろうか?かくして、それぞれの支持者を従えた二つの派(グループ)が生まれるわけだが、これは、歴史の真相を知ることへの欲求というよりも民族的及び政治的連帯という背景に起因するものであろう。「外国よりの影響説」の支持派は、「イ・トゥグハンは外国から起源したものを模倣した、真似屋(真似する者のこと)だ」という意見であろう。「彼はメキシコ人であるコヴァラビアス(Covarrubias)の隣人だったではないか。だから彼の作った長身の人物像はアメリカン・インディアンの特徴を示しているのだ。」と。一方、「ローカル説」の支持者は、「イ・トゥグハンは、西洋文化がバリに到来するよりはるか前に存在していた形態で、通常はロンタールの派から作られるバリの儀礼用、宗教的偶像(iconritualBali)であるチリ(Cili)の形を木に具現したに他ならない」という意見であろう。シュピース自身もチリ(Cili)のコレクションを所有していた。「実際は、逆にコヴァラビアス(Covarrubias)の方がイ・トゥグハンの影響を受けたのではないか?」と。

当然のことながら、歴史はその秘密を完全に明かすことはない。上述のエピソードは、少なくとも私達に当時起こった変化の範囲についてのイメージを与えてくれる。バリ人は外国人の指導者ないしアドバイザー達に影響され、やがて彼らの彫刻芸術は、より日常生活に結びつきのあるテーマへ、そして、より自由な方向へ流されていった。この時期特有の作品は、座り、壺から水を飲み、休憩し、しゃがみ、談笑している人物を描いている。依然として儀礼的(/宗教的)ないし神話的なテーマは浮上しても、彼らはもうそれまで宗教的伝統によって義務付けられていた境界から解放されていた。それまでは、儀礼的(/宗教的)目的で製作される彫像は聖なる木から作られなければならず、既存のiconographyの規則に厳格に従わなければならなかったが、このときには、あらゆる種類と形の木が使えるようになっていた。

明らかなことは、その年代においては、西洋人芸術家たちの指導の下、バリに芸術作品の数は膨れ上がっていた。(その後、)ウブドの若き王であったチョコルダ・グデ・アグンの協力もあって、1936年、ピタ・マハと名付けられた協会がバリの芸術家達の受け皿となる。この協会は、1942年に日本軍政によって解散させられるまで、バリの芸術作品の質の高さを維持することに成功した。

彫刻及び彫像芸術の実践がバリ島全域に広まったとは言え、間もなく、後に生産の中心地として重要な地域となるいくつかの村が現れ始めた。その一つが、マス村である。確かに、マス村は例の長身像スタイル発祥の地ではないが、そのスタイルが1930年代に頂点に達したのはこのマスの地においてであった。その時期に登場した2人の彫像家、イダ・バグス・クトゥッ・グロドッグ(1912年~1978年)とイダ・バグス・ニャナについては、是非とも話しておく必要がある。2人とも、タマン・プレ寺院の継承者(pewaris)で、何世紀もの歴史を有する宗教的芸術の伝統を受け継ぐ、マスのブラフマナ階級の出身であった。前者(イダ・バグス・クトゥッ・グロドッグ)は、ほっそりした小さい体と大きな頭の人物像で、優雅さの加わった表情が特徴のスタイルで知られる。 しかし、天才というものがあるとすれば、それを有していたのはイダ・バグス・ニャナの方である。ニャナは彫像における大規模な開拓に、より重きをおいた。彼は、前述のスピシュピースについての話の中で触れたような長身像スタイル(gayapatungmemanjang)やしゃがみスタイル(gayajongkok)の創始者ではない。長身スタイルはイ・トゥグハンによって創造され、しゃがみスタイルはイ・ドヨタンによって創造された。しかしながら、ニャナは上述の二つのスタイルにおいて、最も創造的で最も成功した彫像家であった。彫刻する際に、彼は体のある部分を長く、その他の部分を短くし、迫真に迫った印象を生み出し、シュールレアリスティックな印象に接近した。ある一定の形については、必要な分だけ作業をし、シンプルに簡潔に、そしてほとんど繊細に、日常的なテーマを常に描くことを選んだ。彼は、多くの同世代の彫像家仲間たちを捕らえた「バロック」スタイルの罠にかかることを避けた。そして、自分の天性の才能を、精神の深淵探究の延長としてのシンプルさ/簡潔さ、を追究するために用いた。

イダ・バグス・ニャナはただ単に彫像を作っていた訳ではない。先人たちと同様に、彼もまた、宗教的目的のための彫像制作をも行った。それらの作品はマス村内の幾つかの寺院において、現在もなお愛でることができる。彼の最も非商業的な遺産の一つとして、マスの部ラフマナの寺院、タマン・プレにおける装飾の発展がある。オダランの儀式の際、寺院に入ると、大門のところで、色とりどりの儀式用の傘の間を分けるようにして視界に飛び込む大きな祖先の面に迎えられる。その面とは、紛れもなく、タマン・プレ寺院の建立者でマスのブラフマナ階級の先祖にあたるダン・ヒャン・ニラルタの顔である。

1930年代におけるバリの彫刻芸術の中心地は、マスだけではなかった。バトゥール山脈の斜面においても、芸術の伝統の地があった。低地の大部分を占めている宮廷文化に根ざした芸術ではなく、農耕文化により根ざした芸術ではあったが。1930年代、オランダ植民地支配によって開発された市場のコンディションがギアニャール地方に広まり、影響を及ぼし始めると、この伝統は発展のため新しい地を求めるようになった。ウブドを約20キロメートル北上したところにあるスバトゥ村は、「プリミティブ」(原始的)スタイルの彫像生産の中心地となった。急速な勢いで跳ね上がった需要を満たすために、この村の彫像家たちは彼らの農耕文化に根ざした無禁制の側面に、より集中的に突入し始めた。それらの象徴としては、悪霊やりリアルなポルノグラフィック的場面の空想的イメージを常に描き出すスタイルである。彼らのiconographyの大部分は、既に何百年も受け継がれてきたクリス(剣)やビンロウジの実を切る刃物の「柄作り」の伝統に起因している。その他に、彼らのインスピレーションの源泉となったのは寺院に見られる下層部分の彫刻であった。伝統的に、これらのレリーフは「中間」の世界(人間の世界)と「下」の世界(悪霊の世界)を表しており、それらの世界とは、神々の世界を象徴するために用いられるiconographyに比べて、解釈の自由(/融通性)を許すものである。

このプリミティブ・スタイルの大家はと言えば、スバトゥではなく、さらに数キロメートル北上したジャティ村出身のイ・チョコッである。チョコッの天才性は、農耕文化を背景とした野性的で悪魔的なイメージと、自然の威力を読み取るための原始的能力により授けられた、木そのものの使い方とを融合させた彼の才能にある。チョコッは、深い森に包まれた土地の出である。彼はよく森の中で、極めて奇怪な、常識を超えた形の木を探すために時間を費やした。野性的で、複雑にねじれ入り乱れた形相の悪霊や宇宙的な鳥(空想上の鳥)の姿を具現するために。チョコッは、バリの芸術にとって一番強力な(/偉大な)天啓(/インスピレーション)とは、これほどまでに繁茂した豊かな植物、豊かな自然環境の存在(kehadiranfisikalamnya)であり、歴史やバリが享受した様々な影響がもたらすものではない、ということを本能的に悟っていた。彼はバリの芸術とその原始的な根源とを結びつけた。彼が、森での徘徊中に発見した、絡み合った枝木から彫刻した悪霊(berhala)のくねくねした形相も、根本的には、自然の威力への畏敬を象徴しているのである。

チョコッとニャナはバリの彫刻芸術の伝統において、二つの異なる自然環境的及び社会的背景を代表している。チョコッは、自然の威力を物語る、高い木々、深い谷、激しい雨や洪水といった環境を備えた山地の人間である。一方ニャナは、米所である低地の人間であり、そこでは、人々はその需要のために彫像を行い、周囲の自然を適応させる。さらに言えば、チョコッは、ジャワの影響を受けた王宮文化からは離れた村の、農耕文化を背景としバリ島民の大多数を占めるスードゥラ階級の出身であり、ニャナの方は、文学を守り、美学の基準を定めるブラフマナの階級の出身であり、ジャワの影響を受けた王宮文化の最も高貴な伝統の継承者であった。

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ピタ・マハ後ないし第二次世界大戦後のバリの彫刻芸術は、絵画芸術におけるほど急速な発展は見せなかった。ほんのひと握りの現代バリ彫像家の傑出が記録されている。その内で、最も革新的でその名を記録するにふさわしい彫像家は、西部ジャワのバンドゥン在住のニョマン・ヌアルタである。彼は新鋭造形芸術運動(GerakanSeniRupaBaru)の一メンバーとして、1970年代に成熟を始めた。当時の彼の作品は、将軍や政府高官をかたどった金属製の像であるが、頭がなく、名もない。最近では、「自転車に乗った人々」(Orang-orangBersepeda)や「宇宙的女性たちの渦」(PusaranWanitawanitaKosmis)のように針金の網から作られる像の作品で有名である。

彼はまた、バリ島南部の丘陵地帯の先端において現在建設中の、巨大プロジェクト、ガルーダ・ウィスヌ・クンチャナ像の作者(/設計者)兼建設者でもある。

彫刻界において、最も斬新的で疑う余地のない才腕を備えた巨匠は、イダ・バグス・ティルム(1936年~1994年)である。彼の作品の独自性は、それまでに彼の父親であるイダ・バグス・ニャナやその仲間たちが開拓してきた変遷の限界を突き破った彼の才能による。彼はその主要な作品において、彫像はもはや単なる神話の語り手や日常生活の叙述ではなくなった。ティルムはストレートに抽象的なテーマに向い、「考える人」(seorang pemikir)や「母親の役割」(hakekatSeorangIbu)などを表現した。彼は、自分が選んだテーマの中に含まれる抽象的な感情を表すために、彫像家の手によって際立たせることのできる特別な点を木に見出した。彼は、父親が行ったことをはるかに越えて、より体系的に、木の形というものに集中した。彼の父が木の自然な形を利用して繊細な(figureの)動きを創り出したとすれば、ティラムは、穴があいたり、欠陥のあったりする一本の木の中に、彼が際立たせることのできるもの、強調できるものは何かを探究した。それも、物語を描くためではなく、精神のコンディション、つまり、感情を描き出すために。その点において、ティラムはまさに現代彫像家と呼べる。なぜならば彼の作品は、現代性の特徴である、意図的な(refleksip)の距離について物語っているからだ。

バリの彫像芸術におけるティラムの役割は、製作のみに留まらなかった。マスにある彼のアートショップにて、彼はバリが有する何名かの優秀な彫像芸術家たちを指導した。彼らのために、時にティラムは製作に使うべき木を直に選んでやり、テーマを提案してやり、また、一緒に彫刻に加わることもあった。こうして、彼らの作品もまた、それぞれの特徴を持ったブランド性のあるクオリティーを備えるようになった。ティラムの貢献はそれだけではなかった。彼は、方々の村々で彫像家たちにデザインについてのアイディアを教え、また、彼らに製作賃金を与えた。このことが、現在は土地の伝統に深く根付いている、多くのスタイルの誕生を促した。ティルムの後押しにより、プリアタンとトゥガスの彫像家たちは、犬や馬やその他の動物を描いた超自然的作品を創造した。ティラムが果たしたバリの彫像芸術界における役割は広範囲に渡り、彼が伝授した種類や魅力は今日に至ってまだ色褪せていない。

現在のバリの創造的彫像家の大部分は「マス」の伝統を起点としている。彼らの多くは直接的であれ間接的であれ、イダ・バグス・ティルムの教え子である。彼らもまた、彼らが向き合っている木の中に、それぞれを語らせるための表情を探究している。

ビダダリ・コレクションは、上述の伝統を受け継ぐ、現存する何名かの優秀な彫像家たちのベスト・コレクションである。彼らの一部は現在もなおバリの神話や民話を源泉とする作品を制作している。イ・ワヤン・クンチャナは、「ラマとシタ(ラマシタ)」にて、ラマヤナの主役二人の愛の場面を描いている。イ・クトゥッ・グルディとマデ・ダルルンは、それぞれ、ウィスヌ神の后である「デウィ・ラティ(/ラティ女神)」と「デウィ・ナタ(/ナタ女神)」を描いている。クトゥッ・プジャの作品である「ラマシタ」「デウィ・スリ〈/スリ女神〉」(ウィスヌ神の后)も貴重である。その他の神話的作品としては、洗浄で死を迎えようとする勇士を描いた「サルヤ」(ワヤン・マドゥラ作)、そして、知識の神でシワ神の息子である「ガネーシャ」〈マデ・ムダナ作〉がある。民話もまた、彫像作品の中に翻訳されている。ワヤン・マドゥラ作の「ニ・クスナ」、マデ・レナとマデ・ムダナがそれぞれ製作した「メン・ブラユッ」。また、常生活を描いた作品もある。「身支度する娘」(GadisBerkemas)(クトゥッ・グルディ作)、「授乳」(Menyusui)ならびに「横たわっての授乳」(MenyusuiSambil Tidur)(クトゥッ・ウィディア作)、「子をおぶる母親」(IbuMenggendong)(マデ・ダルルン作)、また、マデ・スラジャは「ジャゲルの踊り子」(Penari Janger)を表現している。ティラム的な、抽象的テーマを取り上げたものもある。ワヤン・マドゥラ作の「物思いにふける娘」(GadisTermenung)ならびに「親交」(Bermesraan)や、マデ・レナ作の「ロマン」(Roman)などがその一例である。

これらの彫像家たちは、現在のバリにおける彫像芸術界(の最高レベルを)代表する彫像家たちである。彼らの作品は、技法の専門性、伝統に対する知識、創造的な素材の使用法ならびにイダ・バグス・ティラムの軌跡を辿った高い精神的感性(sentuhanPsikologi)が合わさったものであり、これは、幾つかの作品(「物思いにふける娘」(Gadis Termenung)、「親交」(Bermesraan)及び「ロマン」(Roman)に如実に表れている。バリの彫像芸術は、高い職能を必要とするものであるにも拘らず、それに相応しい評価を受けていない。その背景には以前はワヤン(影絵芝居)芸術が担っていた役割をテレビが取って代わったため、人々の記憶に変化が生じ始めていること、また、現在学術的達成に興味を引かれている若者たちが、彫像術の学習/修得システムが大変なものであると見なされ、彫像家になることをためらう傾向にあることなどがある。このような現状から、ある大きな疑問が浮上してくる。「バリの彫像芸術の将来はいかに?果たして、バリの彫像芸術は廃れてしまうのだろうか?」

その答えは、ビダダリ・ギャラリーが実施するセミナー・プロモーションの成功にかかっている。このような現状が世に知れ渡るように、私たちから広めてゆこうではないか。

著者紹介:
パリのEcolesd de Hautes en Sciences Socilaesより博士号取得,バリ在住,多数言語による作家であり、芸術評論家、コラムニストでもある。インドネシア芸術大学デンパサール校の講師でもある。 

編集・翻訳者:イ・グスティ・ラカ・パンジ・ティスナ

アーティスト紹介

1.マデ・レマ(マス村バンジャール・カワン出身,1945年生まれ)

レマは、かつてマス村の、言うなればバリ島の、彫刻芸術の巨匠であったイダ・バグス・ニャナとイダ・バグス・ティラムの両人から同時に指導を受ける機会があった幸運な教え子の一人である。レナの家族もまた彫刻家だったという家庭的背景もあり、レマは常に木と共に生きることが運命付けられていたようである。

「起きて仕事をしている状態のときばかりか、時に寝ている状態においてさえも私の思考は木から離れることができない。まるで思考と一つになったかのように、私がまだその形と霊魂の秘密を見出していない木々が、どこへ行っても私につきまとうのだ。」レマの言葉は、彫刻家たちと木との関係がいかに密接したものであるかを私たちに気づかせる。物理的にばかりでなく、思考そして精神までが木と結びついているのである。

このような密接な関係こそが、彼らの作品をこれほどまでに生きたものにしているのかもしれない。完璧な形、しなやかな動き、そして生命感あふれる表情。見つめれば見つめ返されそうな、真に、手だけではなく魂が生み出した作品である。

ほぼ40年間にわたってニャナやティラムと共に製作し学習する中で、レマは様々な時代を経験してきた。情勢の満ち干、創造性の発展と闘争、そして、絶えず進歩する社会の風潮〈/人々の好み〉の変化に対応し革新的であることへの要請…。「以前、私は装飾的彫刻がびっしり施された大きなサイズの彫像をたくさん作っていました。現在もなお美しく見えはしても、今の時代にはあまり好まれないでしょう。グス・ニャナとグス・ティラムには、まさに先見の明がありました。自由に創作活動をする芸術家としての自分の質を下げることなく、多数の人々が望むものに作品を常に適応させることができたのですから。彼らの思慮や援助のお陰で、マス村だけでなくギアニャールの全域の人々が自分たちの潜在能力を発見し、より良い収入を得られるようになったのです。」偉大なる師への尊敬と思慕の念を込めて、レマは語る。

独立することを決心して以来、レマは、特にデザインにおいて、美しい作品を創作することの難しさを痛感した。気のおけない会話の間に彼はこのように言ったことさえある。「肉体的疲労と精神的疲労で病気になったほどだ。」実際、例えば、深い思い入れのある作品を時には経済的理由のためにやむを得ず売らなければならないといった、合理的な態度を取ることへ要請などを含め、容易ではない様々な問題を抱えながらも、レマは創作を続けている。彼は、既に彼自身が自分の運命と確信している彫像芸術のために、その生を捧げているのだ。

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2.クトウッ・ウィディア(マス村バンジャール・トゥグル出身,1947年生まれ)

クトゥッ・ウィディア、一体、何が彼に美しく魅力的な作品を生み続けさせているのだろうか?革新的である以外に、実は彼は時間に対して非常に厳格な芸術家だったのである。ウィディア曰く、「生きるということは仕事をしなければならないということだ。生きるために仕事をするのではない。一日に8時間だけ仕事をすることで、恐らく我々は人生のうち3分の1のみを有効に使い、残りの時間は無駄にしているということなのだ。」この態度は見習いたいものである。

彫刻家の家族という環境に育ち、ウィデリアは幼少の頃(6歳頃)より彫刻芸術に親しんでいた。彼の初期の作品の多くは、鳥やあひるの彫像など周辺の自然に影響されたものであった。彼の初めての作品を売りに行く途中、川岸を通った時に彼は偶然にもそこで水浴をしていたイダ・バグス・ティラムに出会った。「先生は私の作品を見て、先生のアートショップで働きながら学ばないかと誘ってくださったのです。その時はまだ在学中だったので、私は1963年になってやっとそのお話を受けることが出来ました。中学を卒業してすぐ、私が16歳の時のことです。私の同期はたった3人だけでした。」

こうして、ウィディアの人生における新たな章がスタートした。彼は、一つの作品の製作における全過程を尊重し、そのうちの一つたりとも侮ってはならないということを教わった。「まず初めに、私は、彫刻道具を正しく研ぐこと、鑢(やすり)がけ、木を切るところまでを教わりました。いきなり像を作るようには言われませんでした。その頃まだ若かった私には厳しくきつい教育でした。私はよく仕事が終わってから家で泣いては、自己反省を繰り返していました。恐らくその頃のことが、以前よりは辛抱強い、今の私を作り上げたのでしょう。」よく彼の作品を批判した、しかし彼がこよなく尊敬した師匠を回想した時ウィディアの目に涙が溜まった。

批判されることによって、知らず知らずのうちに彼の内面に、経験を積み重ね、自身の能力を向上させたいという欲求が育まれた。その頃の彫刻家の大部分の作品が装飾的なディテールに凝る傾向にあったにもかかわらず、ウィディアは1976年に創作された彼の作品「人生の生」(Hidup dari Kehidupan)を通して、生きる意味についての考察を堂々と表現した。当事まだあまり使われていなかった木の根の部分を媒体として、ウィディアは、私たちが人生において出来る最善のことは何かを理解し、考察することの大切さについての認識を人々に広めようとした。そればかりでなく、1984年には彼は作品への色付けを行った。まだ彫像に色付けをする芸術家は出ていなかった頃である。

現在に至るまで、ウィディアは、深い考察と思考を基盤とする抽象的スタイルの作品で知られる芸術家である。もはや、彼の初期の作品のように昔話の話の単なる一部だったり、周辺の自然環境の描写であったりすることはなく、表現手段としての彫像というメディアに、彼は個人的な表現を多く込めている。

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3.ワヤン・ダルルン(マス村バンジャール・カワン出身,1948年生まれ)

イダ・バグス・ティラムの最も優秀な教え子の一人であるワヤン・ダルルンに会うと、先生(/師匠)に会っているような気がする。その作品を目にしたことがある人は、ひとたびダルルンに会ってみれば、あれほど崇高な美学的センスがどこからやって来るのかを理解することができるだろう。

彼は全身全霊を込めて仕事にあたり、作品が完璧になるまで決してやめない。「私には一つの彫像を完成させるための時間的目安というのがありません。形を指定した注文も受けません。私自身、100パーセント出来上がるまでは自分の作品がどうなるか完璧に知ることはできません。製作を始めてから、木のコンディションによって変更が生じるかも知れませんからね。私の作品が欲しい人にはいつも「ついでの時にでも私の所によってください」と言っています。立ち寄ってくださった時に、その時完成していたものの中で気に入っていただけるものがあれば、それがご縁というものでしょう。」慎ましく、彼はこう語った。

ダルルンは勉強熱心なタイプである。若い頃、彼は学習のために多くの優秀な彫像家達の元を訪れた。そしてついにイダ・バグス・ティラムに巡り会ったのである。

「先生の所で、私は多くのこと、知識と経験を学びました。偉大な方でした。個々人の才能と専門性を瞬時に見抜いてしまうのですから。弟子たちが、最良の作品を作り上げられるように、先生は、私たちがこれから作ろうとする対象物の細部までを観察するように厳しく指導しました。人の喜怒哀楽、その他の表情をどうやって表すかを教えるために、直接手本を示すことも少なくなかったです。ですから、教え子のほとんど全ての作品は表情豊かで、しなやかで、調和の取れたものになりました。」ダルルンは回想する。

才能に恵まれ、かつ探究心の強いダルルンは、貴重な進歩を経験し続けてきた。ダルルンが、ティラムの所に訪れる大切な客人たちと面会することを任されようになるまで(/信頼され許されるまで)さほど時間はかからなかった。師の作品を好む幾人かの要人たちと直接知り合うようになったのも、驚くには値しない。

どのようにして多くの人々を魅了する作品を生み出すことができるのかについてダルルンに尋ねれば、彼は必ずこう答える。「製作に入る前に心と思考を熟成しなければ(/しっかりとさせなければ)なりません。作品が純粋な(/完全な)美しさを放つためには、心と思考のバランスが大切です。それぞれの要素が対立せず、むしろ互いに支え助長しあって美しさを具現するのです。」ダルルンのこの核心に迫る助言には、製作において「心の真摯さ」を注ぐ彫像家がますます少なくなっていることへ遺憾の意も込められている。

最も思い入れの深い作品がありますか?という質問に対して、彼は、しみじみと答えた。全ての作品は創造の到達した頂点である、と。まさに本物である(Luar biasa sungguh)。

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4.ワヤン・ムダナ(マス村バンジャール・バタナンチャック,1953年4月16日生まれ)

時として、抑えることの出来ない強い欲求というものがある。その欲求が、ただひたすら彫像を作りたいがために、幼いムダナをして、木を盗むという行為に走らせた。

彫像家の家に生まれ育ったムダナには幼少の頃よりその才能と木に対する愛情が培われた。「私の祖父はニョマン・レンベンとニョマン・レニョッド、そしてマデ・ポンドックです。以前は、宗教儀礼の一部として、寺院に献納するための彫像や彫刻をより多く作っていました。現在のように商業的目的での製作はまだなかったですね。」ムダナは、まだ大切に保管していると見える、祖父たちや父親の作品のいくつかの複製を示しながら語った。

「初めて私が作ったデウィ・スリ(スリ女神)の彫像は、パンガル・ブアヤ(木の名前「ワニの歯」という意味)の木を使った小さなサイズのものでした。それが1リンギット(昔の貨幣の単位)で売れた時、私の心は嬉しさの混じった驚きで満たされました。一晩中眠ることが出来ず、これから自分に何が出来るだろうということを考え続けました。」こう、ムダナは回想する。彼の作品は、自身の信仰するヒンドゥー教の文化と宗教からインスピレーションを受けたものが多いとのことだ。

思春期に入って、人生の選択として彫像家になるという彼の決意は固まった。何がその強い希望を駆り立てたのかという質問に対して、ムダナは語った。「ダン・ヒャン・ニラルタの言葉の通り、確かにマスの人々は木から生きることを運命付けられていたのです。それのみが私達に生きる道を与えてくれるのだと。(Hanya itu yang akan memberikan kehidupan)私が公務員になるとか、その他の仕事に就くことを望むことはあり得ませんでした。だからと言って、私は強制されてこの道を選んだのではなく、私は愛情強い意志によって彫像を制作しています。」彼の口調はきっぱりとしていた。

その後、強い決意に支えられ、ムダナは創作活動を続けた。デウィ・サラスワティ(サラスワティ女神)、デウィ・ラティ(ラティ女神)、そして、ガネーシャの像。彼の作品は、やがて、形の完全でない木、或いは穴のあいた木から作られた、細長い、長身のシルエットで有名になった。彼の創作した彫像はしっかりとした表情を持ち、たいへんナチュラルな印象を与える。「形とは、本当は既に木自体の中に備わっているのです。(それぞれの木に)ふさわしいストーリーは既に決まっていて、あとは私達がよりはっきりした形を具現するだけなのです。自分の欲求(/意志/希望)を無理に押し付けようとしてはいけません。それでは、最大限の成果が引き出せませんから。自分の作品がより美しく魂のこもったものになるよう、私は製作に適した吉日を選びます。そうすることで、心の準備が整い、より確信を持って製作に臨むことが出来るからです。」彼は率直に語った。

現在、ムダナの作品は諸外国に知れ渡っている。特にドイツにおいては、彼の作品の収集家がドゥレスデン(Dresden)にある個人博物館に6点以上のムダナの作品を展示しており、オフィスにも1点飾られている。

ニ・ワヤン・ススの夫であり、3人の子の父親であるワヤン・ムダナは、革新的要素を発掘しつつ創作活動を続けることに余念がない。その一例として、内部に石を含んだ(内部が化石になった?)木を使った創作の試みがある。「私は、まだこのスタイルを発表していません。今は最も魅力的な形を模索しているところです。」ムダナは語る。独立を決め、イダ・バグス・ティラムの元で働きながら学ぶことをやめて以来、ムダナが完成させた彫像は数百体にも及んでいる。

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5.イ・クトウッ・グルディ(マス村バンジャール・バタナンチャック出身,1962年12月31日生まれ)

グルディは、彼の仕事場も兼ねる自宅で、彼が彫像芸術の世界に魅了された発端を語り始めた。まだ彫像されていない、様々な種類の木に囲まれて…。それらの木々は乾燥しているとは言え、死んでいると言うにはふさわしくない。どのような形になるのかまだ見当のつかない一本の丸木が、間もなくグルディの手によって、生命をもった何かに化身し、それは、人の心を引きつけて離さない。グルディ自身、購入者の手に渡ってしまうのが躊躇われることもしばしばであるそうだ。

質素な農家に育ったグルディとその兄弟たちは、幼少の頃はよく親にあひるの番をさせられた。当時のマス村で彼と同年代の大半の子供たちが行っていた日課である。

彼自身の興味と、多くの人々が彫像活動を行っていた環境に促されて、グルディは10歳の時に彫像芸術の世界に足を踏み入れた。当初は自信がもてなかった時期もあった。彼の初めての作品が売れたことが(その値段はもう覚えていないが)、彼にとって重要な起点となっている。「うれしかったですね。その時、彫像を学びたいという私の欲求(/希望)は、止め処ないものになりました。」彼は、情熱的に語る。

15歳の年齢に達した1977年より1988年まで、グルディはイダ・バグス・ティラムの元で働きながら学ぶことを決心した。「ゼロからの出発でした。私は、新入生として扱われ、まだ一度も彫像を製作したことがないかのように学習することを受け入れなければなりませんでした。仏像、椰子の新芽などを作ることから学び始め、徐々により複雑な、より難しいレベルへと移ってゆきました。」この段階的に難しくなる製作について、彼は、師の言葉を思い出す。「ここで学ぶ以上、私は君に厳しく対処するがそれは愛情ゆえにである。太鼓への愛情と同じだ。膝に乗せ、絶えず叩き続けることで最高の音を引き出すことが出来る。

それによって君は、何かを容易に行うことに甘んじている他人たちに比べて、より多くの能力や個性を備えることができるのだ。」遠い目をして、グルディは偉大なる師、グス・ティラムを回想した。

グルディは、彼が天才と称する師の指導の元で11年間、自分の能力を磨き、それまで気付いていなかった、自分の秘められた才能を見出すことに成功した。1988年、独立を決心して以来、彼はより自由な創作活動を行い、その才能を広く社会に証明した。 「今になって、恩師の言葉が正しかったことを身を持って悟りました。私は「カユン」(心の真摯さ)に支えられて、木を彫っています。私たちが敬意と愛情と真摯さを込めて彫っていく木が、最大限の表情を与えるよう、そればかりでなく、人々私の作品を好み愛してくれるよう彫像が魂を持つようにするためには、私たち自身つまり私たちの感情や心と木とが一つになることが大切です。」俊才で、かつ、強靭な意志の持ち主である彫像家、グルディは語った。

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6.ワヤン・ムドゥラ(マス村バンジャール・カワン出身,1952年生まれ)

ワヤン・マドゥラの作品を見ていると、まさにマドゥラ彼自身と彼の妻クトゥッ・マジそのものを見ているかのようであり。何故かは分からないが、特にその満面にたたえた笑みには、非常に濃い相似性がある。そして、その作品を見ていると、突如として私たちの心に喜びの光が差し、思わずこちらもつられて微笑んでしまうのだ。

マドゥラは、幼少の頃より、彫像家になりたいという夢を持っていた。「単に彫像家になりたいというばかりでなく、他人に抜きん出た彫像家になるのだ、という私の意志は固いものでした。」彼は真剣な面持ちで語り始めた。そのような訳で、最初から、彼は自分の作品が売れるかどうかといった目標に支配されることなく、創作活動に打ち込むことが出来た。「彫像制作の大部分は、私自身の精神的満足のためです。製作の最中に、私は、自分の作品が人に好かれるか、購入されるかどうかということは考えません。私はただひたすら製作に向かい、さらに自分にできることは何かを考えながら、出来る限りのことします。ましてや、芸術はその評価にはっきりと白黒をつけられるものではないですから。私にとって良くても他の人にとって良いとは限らない。だからこそ、私たちは生存し続けるために、常に創造性を備えていなければならないのです。」

マドゥラは正しい。命は永遠ではない。私たちは、後に、私たちの作品(/創造したもの)を通してのみ、追想される。マドゥラ独特の作品で、1972年に初めて製作された抽象的スタイルの夫婦像である、「若かりし日と老いた日のロマン」(Roman masa muda dan tua)は、その証拠として、現在もなお多くの人々が求め続けている。「これこそが、私の誇る作品です。私がこの像を作ったのは、私にとって、私が木に向って行っていることは夫婦の関係と同じだからです。良いものを生み出すためには、お互いへの理解と一体感がなければなりません。この像は、夫婦が共に生きることの大切さを思い出させる、記念となるやも知れません。そして実際のところ、私が思い、創作したものは、アメリカその他の諸外国の人々を含む多くの人にも好まれました。「そうなると、私の心に満足感が生まれます。役に立つものを作った、ただ美しいだけではなく意味のあるものを作ったということで。」

マドゥラの夫婦像は個性に溢れている。現代的抽象スタイルにおいて、内容と表現が見事に一体化している。一味違った、しかし滑稽さに溢れ、ユーモラスで温かみのある風合いにおいて、マドゥラは、夫婦と同じように、木と共に生きることがどれほど素晴らしいことかを示し、それが見るものの心に幸せを与える。

イダ・バグス・ティラムに多くを師事した何名かの彫像家たちとは異なり、マドゥラはティラムの弟であるイダ・バグス・タントゥラの元で、独立するまでの5年間を過ごした。

もう若くはない年齢に達した現在も、マドゥラは創作活動を続けている。自分が現在行っていることが若い世代に受け継がれていくようにという願いを秘めながら。

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7.ワヤン・クンチャナ(マス村バンジャール・カワン出身,1952年生まれ)

クンチャナは木の根の部分を使った製作に卓越しており、それが、彼独自のセンス溢れる芸術作品となっている。この卓越性は、当然のことながら彼が容易に手に入れたものではなかった。失敗を重ねながらも模索を続ける熱心さ、師事するにふさわしい師の元で学ぼうとする意欲が、今日のクンチャナを創り上げた。

「私は、多くを見たことから始まりました。私の隣人はほとんど皆、芸術作品として或いは工芸品として彫像の制作を行っていました。私自身、芸術家と称されるにはまだ相応しくないでしょう。まだ完璧に修得しなければならないことがたくさんあります。私の作品が単なる「工芸品」以上のものとして評価されるとしたら、当然そこには他に差をつける性質がなければなりません。私にとって、現在、私が到達しているのは出発点に過ぎません。まだ何ということはないのです。」慎ましくも、クンチャナは、こう語った。

現実には、クンチャナの作品は平凡なものではない。18歳にしてイダ・バグス・ティラムに師事したクンチャナには並外れた勤勉さがあった。市が何度も彼が作った彫像を修正したというだけで、彼は学習し続けることを止めなかった。そして自分の能力の向上のために前進し続けた。師の元を離れ独立することを決心した後、作ろうとする作品を、師に見守られずに自分自身でデザインすることを学ばなければならないという現状に直面した時

不安(/怖れ)を感じたこともあったと、彼は回想する。

「しかし、これこそが本当の試練なのです。私はこの職業を、それに付随する全ての結果とともに、選んだのですから。困難に直面しようとも、私はこれを続けていきます。自分が良い作品、愛される作品を生み出すことができた時、それが私の幸せなのです。」クンチャナは、二人の息子の父親で、息子たちは二人とも彫像の才能を受け継いでおり、今後さらにその才能を伸ばしていくことが楽しみでもある。

「マス村には彫像制作を行っている若者がまだまだたくさんいます。ただ、工芸品としての注文を満たすために製作されるものが多いので、質の面では下降の傾向にあります。」彼は、しみじみと語った。

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8.ワヤン・スラジャ(マス村バンジャール・カワン出身,1958年生まれ)

「ジャンゲル」は、バリにおいて大変人気のある大衆芸能の一つである。喜びに溢れた表現、身につけられた独特のアクセサリーや衣裳、踊り子の快活な表情などが、見る者の心を捉える。動きが少しでも合わなければ、コンパクトな印象が台無しになってしまう。この極めてコンパクトなイメージを、造形に移したスラジャの苦労が想像できるであろう。

最終的にジャンゲル像の製作に専念するようになるまでは、彼もまた様々な種類と形の彫像制作を試みた。

「私は9歳の時に初めて彫像を作りました。私の親もジャンゲルの像を作っていましたが、肩、腰など部分的にでしかなく、体全体の製作はしていませんでした。兄を通して、私はイダ・バグス・ティラムと知り合いました。私が12歳の時でした。

ティラムの元で、スラジャはいろいろな形の彫像を制作するよう方向付けられた。一生懸命に全てをこなしたが、師を満足させるには至らなかったようである。「先生は私の作品が最大限でない、と言いました。そして、1979年頃のある日、私が21歳の頃、再びジャンゲル像を作るように言われたのです。その指示を受けて私はうれしくてたまらず、出来上がった作品を見て先生もまた大変満足してくださったのです。それからというもの、私はジャンゲル像の製作のみに専念しました。バリエーションを持たせ、飽きがこないように、3つのモデル(/形?)毎に、どんどんモデル(形?)を変えていきました。」自らの歩んできた道を、スラジャは回想する。

現在、スラジャは人の心を魅了するジャンゲル像で名を馳せている。踊っているポーズにおいても、蓮の上のポーズにおいても、非の打ち所のない、本物そのままの表情と姿を具現している。

スラジャはその作品の独自性によって、絶えずマス村における創造的彫像活動の栄光の座にある。彼の家を訪れても、その作品にお目にかかれるとは期待しない方がよい。なぜなら、まだ製作の終わらないうちから、既に多くの収集家やギャラリーから希望が殺到するありさまであるからだ。

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9.クトゥッ・プジャ(マス出身,1949年生まれ)

パガッ氏の息子であり、小学6年生の頃より既に彫像制作をしていた。始めは、イダ・バグス・バンディルのアートショップとアディルのアートショップへ売られるヨギの像(瞑想を行う人の像)を作っていた。1965年、16歳の時に、彼はイダ・バグス・ティラムのグリヤ(griyaとはイダ・バグス階級の家のこと)に弟子入り(ngiring)した。(“ngiring”とはイダ・バグス階級の家に入ること。このような場合「彫像を学ぶ」という言い方よりもこの“ngiring”という言葉の方がよく使われる)グリヤにて彼の父親の名前がよく知られていたために、彼はグリヤに受け入れられることができたのだった。

1979年の8月に、クトゥッ・プジャは自分自身の創作能力を発展させる第一歩を踏んだ。彼がグリヤで学び経験した多くのことは、現在の彼の指標となっている。

イダ・バグス・ティラムが故人となってからは、マスにおける彫像芸術界は、創作意欲を駆り立てる重要人物を失いつつあった。以前、イダ・バグス・ティラムは、チュルクには銀の専門家がいなければならず、彫像家はマスで、画家はウブドで育たなければならない、ということを公言していた。そうすることによって、一つの地域が独自性と高い芸術レベルを備えることが叶う、と。「イダが逝ってから、彫像芸術は下降した。」とプジャは言う。

マスの彫像芸術を再興させたいという意欲と思想は、まだ強く彼の脳裏にある。「経済事情がこうだから、今は生活することを考えなくてはならない。たくさんの人ないし全ての人が、以前からそんなことを言っている。多分今は皆苦しい時なのだ。いつか、経済的にゆとりが出てくれば、きっと再建しようとする人間が出てくる時が来る。一人でやることは出来ない。たとえそれが小さな活動であっても、たくさんの人間が一緒にやらなくては。若い世代が彫像に興味を持つように、指導する人間がなくてはならない。その指導活動から生計を立てることが出来れば、指導しようとする人間も出てくるはずだ。」

彼の願いは、少しでも多くの人々、特に、彫像芸術によって既に成果(/収益)を得たと感じる人々が彫像芸術の存続のために何かを行うということである。政府に対してプジャが望むことは、観光客が喜んでバリを訪れてくれるよう、国を、特にバリの地を平和に保って欲しい、ということだそうだ。

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